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深夜徘徊支援事業団 56 「アイ・アム・レジェンド」
- 2008/11/28(Fri) -
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ウィル・スミスさんの好演にもかかわらず、B級のホラー系&ゾンビ映画になってしまったので。。。涙。
SFとしては古典的な名作として名高い「地球最後の男(片桐が持っているのは77年版と2007年版)」はこれで3度目の映画化らしいのだが、生憎前2作は見ていない。
一言でいえば、この小説は決して英雄ものではないということに尽きる。
世界に一人残されてしまった(平凡な)男が希望を探す物語なのである。そしてわずかに見つけた2つの希望のどちらもがあっという間に覆されてしまうのである。それこそ、孤独という環境に対して、人間がいかに耐え抜いていくかという過程が克明に描写されていて、決してそれが非凡なものではなく日常生活の延長なのが逆にリアルに感じられてくる。根本的な欲求である性欲を忌むべき“敵”によって増幅させられ、それを懸命に抑制しようとする姿は男性ならば同情を禁じ得ないだろう。映画では廃墟となった街で生き抜くために動物を撃ち殺したりするのだが、原作ではひたすら冷蔵庫に貯蔵した肉を食べ、文字通り山のように買い置きした煙草をロバート・ネヴィルは吸っているのである。
原作が1954年に書かれているのでレコードしか登場せず(映画で使われていた交信設備もない)、ロバート・ネヴィルはクラシックのレコードを聴きまくることが楽しみ(というか気晴らし)になっているのだが、これが現代であれば、そして片桐が同様の条件に置かれたとするならば、Web上に残されたサイトを順番に回覧したり、延々CDを聴きまくりDVDを見続けるだろうと、ついつい下らないことまで考えてしまうのである。
終りの方に登場してくる、“新秩序の世界”は「ターミネーター」にも共通するような独自の価値観に基づく社会であることが明示されているが、それはやはりあくまでもキリスト教的な思想に基づく終末論が根幹になっていて、それを裏返せばこの作品を通じて、アメリカという国家の倫理観というもの(プラグマティズム的なもの)がどんどん優勢になっていくことを批判しているのかとも思ったりもする。映画ではやたらとその点が強調されていたような気もして、事実Webでの映画評にもそういった指摘をしている人がいた。故に原作や本来公開されるエンディング(DVDにボートラとして収録)ように、同僚であるコートマンが“新秩序の世界”の人間に処刑される際のロバート・ネヴィルが抱く親近感や憐憫は滅びゆくものに対しての意識としてのシンクロなのであり、そこに至って求め続けてきたコミュニケーションはコートマンの死によって完全に断絶する。そして、それによって生き残るために”敵“になってしまった自分の妻さえも葬り去らなければならなかったロバート・ネヴィルの「伝説」が完成することになる。
更なる裏読みなのかもしれないが、この原作が異なるものを排除し、世界を画一化しようとすることに対しての警告というものであれば、リチャード・マシスンの着眼点は慧眼であろうと思ったりもする。だから、この公開されているエンディング・シーンには違和感を覚えるのである。
原作は極めて陰鬱な色彩が強く、ロバート・ネヴィルも映画でのウィル・スミスさんのようにかっこよくはありません。

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